Cinema Review

死刑台のエレベーター

Also Known as:Ascenseur Pour Lechafaud

監督:ルイ・マル
出演:モーリス・ロネ、ジャンヌ・モロー


未開地開発会社の青年ジュリアンは社長夫人フロランスと密会を重ねていた。そこである日二人は邪魔者になったカララ社長を殺害する計画を実行する。しかし完全犯罪が成功したかに見えたその直後、忘れ物(ロープ)に気付いたジュリアンが取りに戻ろうと引き返し乗ったエレベーターの電源が突然切れてしまう。待ち合わせの場所にやってこないと焦燥にかられるフロランスは夜のパリをひたすら駆け巡りジュリアンを探し回るが当然逢えず、エレベーターの中に監禁されているジュリアンも脱出しようと試みるが翌日になるまで脱出することができない。その間、ジュリアンの車を盗んだ若いカップルがとあるモーテルでドイツ人観光客を殺害してしまう。しかし、物的証拠からジュリアンの犯行と断定されてしまう。翌日エレベーターからようやく脱出できたジュリアンは訳もわからぬままドイツ人殺害の容疑で逮捕される。アリバイを証明したら、カララ社長の殺害がばれてしまうのでいえないでいるジュリアンをみて、このままでは死刑は免れなくなってしまうと危機を感じたフロランスはドイツ人殺害の真犯人を突き止め警察に通報する。警察は一本のネガフィルムを発見し、ドイツ人殺害は若いカップルの犯行だと断定したが、そのネガにはもう一つ重要な写真が残されていた。現像液に浮かび上がったもの、それはジュリアンとフロランスがなかむつましく写っている何枚もの写真であった。かくして思わぬところから彼等の完全犯罪はくずれ、二人は逮捕されたのである。

感情や情緒を排除し夫殺しを指示する女と完全犯罪を企み冷酷に実行する男。二人は電話口で愛を囁き逢うがその表情は硬質で冷たい。(まさにハードボイルドの世界)それは完全犯罪を遂行し、成功し落ち合うまでは微笑むことはしないと暗示しているようにも見え、その微笑みは遂に写真の中でしか実現されることはなかった。ジャンヌモロー扮するフロランスは一切甘い顔をみせず冷酷な女として感情を排除していたが、ヴォイスオーバーを通して見た彼女は全く別人で、心の奥底に焦りをそしてジュリアンをこの上なく愛する情熱を秘めた女であることがわかる。表情には出さない彼女の秘めたる素顔が心情を吐露するヴォイスオーバーによって明かになり、それが台詞に直に現われるのではなく、夜のパリを必死になって探し回りさまよい歩く姿によって伝わってくる。行きかう人々や車を止め、夜の街あかりをさまよい歩く。小雨がふり、雷が鳴り響く。街の表情、天候それら全てがフロランスの心情なのである。憔悴しきった顔、それでも探さずにはいられない、ジュリアンを求めずにはいられない彼女は広いパリのど真ん中の暗闇の中で完全に孤独の世界にいたのだった。
一方、エレベーター内に閉じ込められたジュリアンは狭い閉鎖された空間の暗闇の中でフロランスと落ち合わなければならないという焦りと焦燥にかられエレベーターから脱出しようと必死になる。
エレベーターの床のねじをはずし下をみるとそこには暗闇の世界が広がっていたのだが、かつて落下傘部隊に所属していたこともあるジュリアンは恐れもせずロープを伝って降りたのだ。(このシーンはカララ社長殺しの時、ベランダから上階のベランダへ綱渡りしたあのシーンを彷彿させる。)ジュリアンと同じ高さの目線で写し出されるとロッククライミングをしている様にも見えるこのシーンはカメラワークがしたから見上げる形になると直接この映画のタイトルになっている絞首刑の死刑台のイメージとつながっていく。(この「死刑」という言葉は後に社長殺しが発覚した時、重い意味を持つことになる。)そして、偶然にも管理人が戻ってきたせいでエレベーターが動かされるのだ。寸前の所でエレベーターが止まり押しつぶされずに一命を取りとめるが、その心境は『死刑』を執行された囚人そのものであった。警察がやってくる前に彼は十分死ぬ思いをしたのである。この二人の行動から同じ時刻に同じパリの中をジュリアンもフロランスも暗闇の中、広い空間と狭い空間という大きな差はあるものの、孤独と戦いながら焦燥の中で相手を捜し求める為に必死になっていたのだということがよくわかる。
ジュリアンとフロランスが縦糸とするならば横糸になる重要人物はジュリアンの車を盗みドイツ人観光客を殺害したとされる街のチンピラ、ルイと花屋の少女の若きカップルだろう。ジュリアン達の殺しと同時進行するかの様にルイ達もひょんな事から殺しをしなければならない状況に陥った。(勝ち気な男を目の前に冷酷にピストルを打つルイの姿はジュリアンを彷彿させる。)若きカップルの逃避行はジュリアンとフロランスがまさに目指し憧れていたその状況と一致する。つまりジュリアン達のしたくてもできない行動をルイ達は実行していたのである。(しかもジュリアンの愛車を使い、ジュリアンのジャケットを着て、である。)ジュリアンとルイが重なり、フロランスと少女が完全に一致する。それは別々の監房に入れられるぐらいなら一緒に死のうとルイ達が心中する前のシーンの台詞からも明白である。

「二人が並ぶのは新聞写真・・・」
「読者にはわかるよ。なにもかも」
「死刑になる?そんなことさせない。」
「新聞にでるわ。「悲劇の恋人たち」って」
「君は無罪だ。警察は許可しないよ。」
「いいえ。私達の方が強いわ。」

これは(若きカップル)ルイ達の台詞だが、これはそのままフロランス達の心情でもあり、この台詞を彼等がつぶやいたとしても何ら不思議ではない。ジュリアンとルイ、フロランスと少女が同一化するシーンはラストのフロランスの台詞にも現われる。
「10年20年無意味な月日が続く。私は眠り目を覚ます。一人で・・・私は冷酷だったわ。でも愛していた。あなただけを。私は年老いていく。でも二人は一緒。どこかで結ばれている。誰も私達を離せないわ。」
誰も私達を離せない、といって心中するつもりで少女はルイと共に睡眠薬を飲んだ。(しかしそれは致死量に達しなかったせいで生きているのだが・・・)そしてラストのフロランスの台詞にも「死」と「眠り」の関係が引き合いにだされている。ジュリアンが警察から尋問を受けているシーンでも「眠りたい」という台詞が頻繁に使われていたのをみると「死」と「眠り」はこの映画の中では同一のものとして扱われていることがわかる。フロランスにとって10年20年ジュリアンに会えない日々を送ること(刑務所送りにすること、つまり「眠り」に入ること)は死を意味していた。そう考えると夫(カララ社長)を殺さずジュリアンと結ばれない事は彼女にとって大きな問題であり、死を意味していたのだ。彼女にとってそれは生死にまつわる死活問題であった。ジュリアンが夫を殺せなかったとしてもそれは彼女にとって死であり、ジュリアンが自分の元を離れ他の女の元にいったとしてもそれは彼女にとって死であった。(もっともジュリアンが花屋の娘と車にのっているというのはとんだ勘違いであったが・・・)しかし、どういう状況になっているのおかジュリアンと出会うまで何もわからないのである。だからこそ、パリの中をさまよい歩き、焦りの中で死にものぐるいになってジュリアンを捜し求めていたのだ。ジュリアンが逮捕され夫を殺したことを知り他の女の元にいたのではないと確信するとほっとしたに違いない。「これから人生は始まるのだ」と彼女は意気込み始める。「生」への出発である。しかし、愛するジュリアンはその時「死」と直面していた。ジュリアンが死んでしまっては元も子もない。「助けてあげるわ」とフロランスは意気込み真犯人を挙げようとする。(その助けは花屋の少女が「あなたを助けてあげる」といってルイに死を勧めるのとは随分違う。ドイツ人殺しが見つかったルイは結局死刑になるが、それは常にペシミスティックに物事を考える花屋の少女が死を導いてしまったかの様にも見える。)結局、真犯人を挙げた事でフロランス自身、重い罪を背負わなくてはならなくなったが、そうすることでジュリアンは死刑から免れた。彼女のオプテミスティックな心意気が彼を死から呼び戻したのかもしれない。
ジュリアンの生は直接フロランスの生につながっていく。結局フロランスとジュリアンは最後まで出会える事なく(写真の中でしか出会うことができなかった)幕を閉じてしまったが、だがそれでもどこかで生きている、何処かで結ばれているという思いそれだけをたよりに「生」をまっとうすればいいのだ。そうするより他に生きる道はなかったのだから。フィルムノワールにおけるファムファタールとはそのような運命なのだ。
この映画はストーリー展開の面白さから登場人物の心理描写、音楽そしてカメラワークに至るまで非常に凝っていて素晴しくまるでタペストリーを織るように見事に調和され圧倒されたが、やはり一番目を引いたのはモノクロ映像でしか現わせないだろうと思える光と影の効果である。(フィルムノワールの特徴ですね。)真っ暗なエレベーターの中で焦燥に満ちたジュリアンの顔を照らすライターの光、髪に火をつけエレベーターの中から投げ入れた光・・・光と影のシーンは限りなくあったが、やはり何といっても極めつけは現像液に浮かび上がった写真の光と影だろう。すべてが明かになるこのシーンを私は忘れることができない。

Report: Yuko Oshima (1997.01.11)


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