Cinema Review

シクロ

Also Known as:Cyclo

監督:トラン・アン・ユン
出演:レ・ヴァン・ロック、トラン・ヌー・イェン・ケートニー・レオン、グエン・ヌ・キン

現在、急速な勢いで発展を遂げるベトナム、ホーチミン市。雑踏と喧騒の中をシクロ(ベトナムの輪タク)を運転して走<シクロ>(レ・ヴァン・ロック)。彼の母は出産時に、シクロだった父は二年前、交通事故で亡くなっていた。<シクロ>と彼の<姉>(トラン・ヌー・イェン・ケー)の僅かな稼ぎが一家の収入を支え、裏町で祖父と<姉>と暮らしている。<シクロ>の仕事道具、シクロは<女親方>(グエン・ヌ・キン)から高額で借りている。おまけに、一日の収入はかなりピンハネされる。縄張りをめぐってヤクザに絡まれることも多く、危険な商売だ。ある日、<シクロ>のシクロがヤクザグループに盗まれる。<女親方>に報告すると隠れ家に隠れろと指示が出る。<シクロ>の監視役に女親方の愛人の<詩人>(トニー・レオン)と呼ばれるヤクザのグループが宛行われた。隠れ家は<詩人>のグループの溜り場となって荒れはてていたアパートの二階で、通りを挟んで向かい側のマンションの二階が<詩人>の部屋だった。<詩人>のマンションには頻繁に女達が出入りする。<詩人>は売春組織を運営していた。そんな女達の一人に<姉>がいた。<姉>は<詩人>を愛していた。だから売春を始めた。金が目的ではなかった。<詩人>はそんな女達を利用するのが彼の商売であるはずだったが、商売道具にすぎない<姉>の純粋な愛に次第に惹かれていく。<姉>は処女だったが、アブノーマル専門の売春婦となった。<詩人>はそんな<姉>のアブノーマル・セックスを覗き、<姉>への屈折した愛を感じる。距離をおいて覗くことでしか自分の感情を表現できない屈折した愛情。過去にヤクザとなって自分の感情を捨てたはずだった<詩人>は、そんな自分の心の変化に気づけない。<シクロ>は次第にヤクザに憧れる。力を持てば簡単に金が手に入る。<詩人>は<シクロ>の純粋さが気に入っていたので、ヤクザに憧れる<シクロ>に失望した。ヤクザとなった<シクロ>は、窃盗や麻薬密売の運送などの悪事に手を染めていく。純粋さを持つ<シクロ>は自分の感情を捨て悪事に走り切れず、ヤクザとしても半端者だった。酒とドラッグに溺れることで自虐的に自分の純粋さを捨てるようになる<シクロ>。ある日、<姉>が客にレイプされるという事件が起こった。変態行為の上、客によって処女を奪われた<姉>は深く傷つく。<詩人>は怒り、その客を殺す。屈折した愛に気づく<詩人>。虚無と絶望の果てに<詩人>は部屋に火をつけ自殺した。<詩人>の自殺は皮肉にもヤクザの道に片足を突っ込みかけていた<シクロ>を救う。ヤクザグループは解散したのだった。<詩人>が憧れた<シクロ>の純粋さは<詩人>の行為によって守られる。彼は元の生活に戻った。やがて朝が来ると、何事もなかったかのように超高層ホテルとスラムが同居する街は雑踏と喧騒に包まれる。

'95。フランス・香港・ベトナム映画。ヴェネチア国際映画祭グランプリ。前作『青いパパイヤの香り』で注目されたトラン・アン・ユン監督のメジャー二作目。マーティン・スコセッシ監督の『タクシー・ドライバー』のベトナム版を目指したような雰囲気のある作品。街を動きまわるシクロを中心にしてホーチミンの実情を描こうとしたあたり『タクシー・ドライバー』の影響を強く見てとれる。

確かにトラン・アン・ユンは才能溢れる素晴らしい監督だと思う。が、この『シクロ』は国際的に最高評価を得るに見合う作品かどうか少々疑問に思う。絶対に悪い映画ではない。観ても損はしないだろう。が、メジャーな要素がほとんどないのに、キャストとか作りが妙にトレンディ・ドラマっぽいところがむちゃくちゃ違和感を感じる。視点や取り上げている題材が西洋的に偏っているため、アジア人の僕にとっては映像に現れているホーチミンの実際の社会とリンクしてないような微妙な感覚のズレを感じる。もしかしたら、この映画の撮影のため20年ぶりに帰郷したトラン・アン・ユンが感じた感覚のズレなのかもしれない。そのために映像が妙にポップでキャッチーになりすぎている。僕が感じた監督とベトナムの感覚のズレはヨーロッパ人には分からなかったのかもしれない。きっと彼は現在急速に発展しているホーチミンの民衆のパワーを描きたかったに違いないが、その意図は彼の視点が外の、特にヨーロッパの視点である為、妙に設定がベトナムの実情からは現実離れしてそうで厭らしい。ポップでキャッチーなところは悪くないのだけど。きっと彼はベトナムの根に根ざしたベトナム人のそのままの姿をスクリーン前面に押し出したかったに違いないが、残念なことに彼の描くベトナム人は妙にスクリーンの中で浮いている。街に溢れるエキストラのベトナム人とはやはり違和感がある。彼の感覚がまだまだフランスに近くて本当の意味でのベトナム人に戻り切れていないのではないかと思う。シクロの意外な評価は、ヨーロッパ映画界がアジアン・ヌーボーの評価に甘いという一例なのではないだろうか。とここまでちょっとこの作品の国際評価を非難したが、トラン・アン・ユンは可能性がある監督であり、この映画も決して悪くないということは確かに言えるのである。

僕はかなり説明的なplot紹介を書いたが、というのもこの映画はストーリを前面に出して作ってないので、普通の人には主張や物語の流れを掴むのがかなり難しいだろうと予測したからだ。ストーリを解釈しながら観る人にとっては映画を観終った後に「何が言いたいんじゃ」とトラン・アン・ユンの表現にちぐはぐさを感じると思える。そんな、主張がないもしくは分かりづらいなんてことは決してないのだが、この映画はテーマや内容は複雑ではないが、直接的に表現されてないので、頭で解釈しようとすればこの映画はかなり難しいだろうと思う。この映画は分かる人には分かるだろうが、嫌いな人、観終った後に不満が残る人はかなり多いだろうなって思う。それぞれの役はある心象の象徴なのであるが、それは映画の中で説明されることはないのでこれが理解できないと最後まで???がつくことは容易に想像できる。だから、少々捕捉説明を含めて説明的なぐらいでちょうどいいんじゃないかと判断したのだった。上のplot紹介は、説明的な要素がほとんどない作品だけに僕が感じた解釈がかなり織り混ざっているので正しいかどうかは保証しないが、多分トラン・アン・ユンの意図にかなり忠実に解釈できたと自分では思っている。

映画中に全く説明的に表現されない彼の意図を理解しながら映画を観ると、きっと、<シクロ>レ・ヴァン・ロック、<姉>トラン・ヌー・イェン・ケー、<詩人>トニー・レオンは三者三様のキャラクタをよく表現しているすばらしい演技と思えるはずだ。完璧に近いぐらい監督の意図に沿って主役3人は役を演じ切っているのだ。監督は彼らの演技に、感情を面に出さないことを要求していると思える。だからストーリの流れから必然に表現されるべき表現と実際のスクリーンの彼らの表現は全く別な状況が多い。特に<詩>>は寡黙で、自分で自分の感情に気づけなく、自立神経失調症ぎみな役なので表現の幅が小さく絶対頭による解釈では何を考えているか分からないであろう。心の裏では自分が何を考えているか分かっていて、でも面ではそれがコントロールできないでほとんど表情に幅がなく、でも僅かに裏の心理が見え隠れする、そんな難しい役をほんとよくトニー・レオンが演技じ切っていると思う。ただその分、理解できる観客を限定しちゃったかな、メジャーな要素を切りとっちゃったかなとも思うが。最初、こてこてのベトナム系の顔が多いホーチミンの街中でバリバリの香港映画二枚目スター、トニー・レオンが登場した時は、黒澤 明の『八月の狂詩曲』に遠い親戚としてリチャード・ギアが長崎に登場したぐらい違和感があったが、確かにホーチミンは古くから華僑が多く住んでいる街でもあるので、ベトナムからすれば中国人の採用はけっこう自然なのかもしれない。

純粋の象徴として<シクロ>は存在しているのだから、全くのずぶの新人レ・ヴァン・ロックをトラン・アン・ユンが起用した理由は僕は良く分かる。確かに彼は素人の新人だけあって演技も何もあったものじゃないぎこちなさはあるのだが、この映画の象徴として素晴らしい存在感を示したのは監督のレ・ヴァン・ロック起用の狙いが的中して映像とテーマにマッチしていたからである。<シクロ>役にずぶの素人を希望したトラン・アン・ユン監督は、4カ月、何千人もの人間に会うが希望する人物とは巡り合わず、人選は難航した。当時レ・ヴァン・ロックは長距離トラックの運転手で、オーディションに来ていたわけじゃない。たまたま、街で見かけた彼をトラン・アン・ユンが気に入りその場で出演が決まったという。映画を見て彼の効果を考えるとそんなエピソードも分かる気がする。

Report: Akira Maruyama (1996.08.15)


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