サッカー場の売店の売子スー・リーチェン(マギー・チョン)はヨディ(レスリー・チョン)に「今夜夢で会おう」と謎の言葉を投げかけられる。その日からヨディは毎日同じ時間現れるようになる。ヨディは彼女に1分間だけ時計を見るように誘う。その1分間はスーにとって永遠に続く1分間になった。1分間だけの恋人。次の日は1分伸びて2分間のだけ恋人。その時間限定の恋人遊びは日に日に時間が増えていき、1時間を共にし、そして夜を共にする関係に発展していく。スーはヨディとの結婚を願望するようになるが、彼はその意思がないことを彼女に伝える。ヨディは養母の経営するナイトクラブのダンサー、ミミ(カリーナ・ラウ)と知合い同棲する。ヨディの親友サブ(ジャッキー・チョン)はヨディの部屋にいたミミに一目惚れをする。激しい雨の夜、ヨディを忘れられないスーは彼のアパートまでいくが部屋に入るきっかけが掴めず階段の下に座り込む。巡回中の警官タイド(アンディ・ラウ)はそんな彼女を発見し、見かねてヨディの部屋をノックする。しかし、ヨディの部屋にはミミがいた。スーは部屋を飛びだし、雨の街に逃げ込んだ。雨上がりの夜明け再びタイドはスーを発見しタクシー代を貸す。まだヨディのことがあきらめきれないスーは夜な夜なアパートの下まで向かいそしてヨディには会わずに引き返す日々を送る。そんなスーをタイドは護るように見守る。二人はやがて打ち解け合い身の上話をするようになる。寂しい時は決まった時間に巡回地点の公衆電話をかけてくれとなぐさめるタイド。しかし、毎夜公衆電話の前で待つタイド宛にベルが鳴ることはなかった。ヨディの養母はヨディに実の母の存在を打ち明ける。ヨディはミミと愛車をサブに譲り、実母が住むフィリピンへと旅立った。突然失踪したヨディを探すためミミは街をうろつく。そんなミミをサブは懸命に慰めるが、彼の声はミミには届かない。自分にはミミの悲しみは救えないと悟ったサブは、ヨディから譲られた車を売り払い、その金をミミに渡しフィリピンへ行くよう勧める。フィリピンではヨディは実母に面会を断られ、酒に溺れ喧嘩に巻き込まれ、失意のうちに警官をやめ船乗りとなったタイドに助けられる。ヨディはタイドを食事に誘った。そのレストランはマニラのギャングのアジトで偽造パスポートを密売していた。偽造パスポートでアメリカに渡ろうと考えたヨディだったが、取り引き相手を殺してしまう。どさくさにまぎれ列車に飛び乗ったヨディとタイドだったが、ヨディは車中ギャングに発見され撃たれる。死にゆくヨディは、再会した時にタイドが誰か、思い出していたと告白する。そしてその時スーはタイドと連絡を取るために公衆電話に電話をかける…。
'90。香港映画。'60年の香港に生きた若者達の青春群像を描いた映画 。原題は『阿飛正傳』。この映画で王家衛(ウォン・カーウァイ)は東京国際映画祭などの各国の映画祭に殴り込みをかけ世界中の批評家を仰天させた。従来のカンフーアクション物や大河歴史物とは一線を引く、全く新しい洗練された表現の香港映画なんて誰も期待していなかったからだ。この映画の登場は、衝撃という表現が適切なほど各国の映画関係者に強烈な印象を与えた。それが後に王家衛ブームを巻き起こす『恋する惑星』の爆発的成功の呼び水となる。『恋する惑星』は配給されるやいなや、パリでは香港映画界前代未門の7館同時上映、初週15万人動員、東京では初日1万5千人の待ち行列ができパニックが起こるという歴史的事件を引き起こす。いかに『欲望の翼』のインパクトが強かったか、王家衛の次作の登場が期待されてたかが良く分かるエピソードである。それらのエピソードが示すように『欲望の翼』は従来の香港映画的ではない、とても前衛的で洗練された映画なのだが、これだけ国際的な評価を得た作品にも関わらず芸術映画として作られたわけじゃない。'90年のクリスマス商戦に合わせた娯楽映画なのである。王家衛の映画はみな徹底してエンターテイメントであろうとする姿勢で作られているから好きだ。だからポップでミーハーな要素が生まれる。そこが嫌な人もいるだろうが、僕はヒットメーカーとしてこの姿勢が貫けることが重要なことだと思っている。この映画は娯楽を目的とした映画らしくキャストも当時の香港映画界のキラボシのような豪華な一流スターを揃えていて話題性にも事欠かない。実はこの映画は二部構成になっていて企画の段階では物語に続きがある。時間と予算の都合上前半の一部のみ(それでも上演時間が3時間の大作だ!!)製作された。一部の6年後の時代設定である後半の二部は未だ撮影されていない。
映画中に張國榮(レスリー・チョン)演じるヨディが好んで繰り返し脚のない鳥の話を引用して自分を陰喩する。どこにも着地できず、死ぬまで飛び続ける脚のない鳥。王家衛らしいセリフだが、このセリフにしか出てこない空想上の鳥のイメージがこの映画の隠れた象徴として映像に使われている。テネシー・ウィリアムの『地獄のオルフェウス』の引用なのだそうだ。幻想的なオールウェイズ・イン・マイ・ハートのメロディに合わせて緑深い熱帯雨林のジャングル上空を滑空するイメージのオープニングは、明らかに脚のない鳥を想像させ、リフレインとして作中でも使われ、この映画をよりいっそう印象づける。象徴を抽象化して、セリフの中に文学として存在させ映像とシンクロさせ、効果的なシーンでリフレインさせる。王家衛らしいうまい映像効果だ。
王家衛らしい映像といえば、この映画の最後にそれまで一回も登場しなかった梁朝偉(トニー・レオン)がワン・シーンだけ、しかも今までの話と全く脈略なく登場して物語は終了する。贅沢で大胆な超人気役者の使い方だ。しかし、梁朝偉のこの役は決して単なるエキストラではない。それは宣伝で(梁朝偉を含めて)6人の若者の青春群像と表現していることからも明らかだ。もちろん、二部作であるので、後半部の伏線という意味もあるのだろうが、王家衛の性格を考えるとむしろ存在そのものにこの作品における重要な意味を持たせて登場させているに違いないと思う。この前衛的な謎の構成が当時賛否両論で、商業的にはあまり成功した映画にならなかった。僕が観る限りそのシーンに全然違和感を感じない。もちろん僕はあまりストーリ性を重視しない人だから当然ではある。僕はむしろそのシーンがすごく印象的で良かったと思ったぐらいだ。確かにそのほんのワンシーンだけの梁朝偉の演技は素晴らしく、最高のカットだった。(映画はストーリとは何の関係ない一瞬のたわいない演技が全体を特徴づけることもしばしある芸術である。例:『汚れた血』におけるジュリエット・ビノシュの髪を吹き上げるワンシーン)しかし、確かにplotとして慎重にそのシーンを解釈してみるとどう理解していいか分からないのは間違いないので、ストーリを重視する人はこのラストシーンが本当に嫌なんだろうな。やはり映画観るという行為は物語を論理で解釈するものではなくて、感覚的に全身で製作者の意図からインスピレーションを受ける行為なのではないだろうか。だから、物語としての整合性、完全性などは本質的に映画には必要ないと思う。だから、僕はストーリなどどうでもいいという姿勢でいつも映画を観ている。
王家衛は時計を好んで映像に収める。彼のどの映画も時計が映画の中で時を刻みながら物語が進行している。彼にとって時計は、時計が針を刻む時、同じ時間に様々な場所でそれぞれの人が別々の生活を営んでいて、それぞれの生活にはそれぞれのドラマが潜んでいるという彼の主張の象徴である。その問題のラストシーン直前に、時計と、映画に登場する様々な象徴的な場所に映像が次々と切り替わっているので、きっとさらにその直前のシーン、脚のない鳥が空に旅立った時に、映画の世界の住人のそれぞれのその時の行動と、物語とは別の生活の象徴として梁朝偉が登場するのだと解釈するのが王家衛的に一番素直な解釈だと僕には思える。少なくとも僕は映画を観ていた時、突然の梁朝偉の登場に少々びっくりはしたが、感覚的に以上のように素直に解釈することができたし、突然の梁朝偉の登場とその直後のエンドロールに全く違和感は覚えなかった。