Cinema Review

さらば、わが愛

Also Known as:覇王別姫

監督:チェン・カイコー
出演:レスリー・チャンチャン・フォンイーコン・リー、ルォ・ツァイ

京劇が隆盛究める'25、娼婦の子小豆が母親に連れられ京劇俳優養成所に入門する。生い立ちから毎日いじめられる小豆は養成所脱出をはかるが、途中立ちよって見学した京劇の素晴らしさに感動し、立派な京劇役者になることを決意する。脱走した罰を受ける小豆を小豆の唯一の理解者だった石頭が庇い、二人の友情は確かなものとなる。常に自分を自分を庇ってくれる石頭に、小豆はほのかな恋心を抱くようになる。小豆と石頭はそれぞれ芸を磨き、女性的な小豆は女形に、男性的な石頭は男役のはまり役を得、このコンビでの演技が認められていく。やがて成長した二人はそれぞれ程蝶衣、段小樓と名乗り人気役者になる。'37、日中戦争勃発。小樓は娼婦の菊仙と出合い結婚。密かに小樓に思いを募らせていた蝶衣は、突然の小樓の結婚に戸惑い、コンビ解消を申し出る。日本敗北。共産党が北京に入城する'49。蝶衣は街で西瓜売りに成り下がった小樓と再会。和解し再び舞台に立つ。しかし時代は京劇に変革を求め、蝶衣は愛弟子である小四に役を奪われる。'66、文化大革命。京劇は文化大革命の標的になり、京劇黄金期のスターだった蝶衣と小樓は見せ締めの矢面に立たされる。大衆の面前で反省を促され、保身のため小樓は蝶衣を裏切る。逆上した蝶衣は菊仙を娼婦だと詰る。大衆の面前で小樓にさえも娼婦だと詰られた菊仙はそれを苦にして自殺。そして11年後、'77、22年ぶりに舞台で共演する蝶衣と小樓は最後の『覇王別姫』を舞う。

'93。香港映画。原題は『覇王別姫』。カンヌ映画祭グランプリ。上演時間が3時間近くに及ぶ大河長編映画。蝶衣役、レスリー・チャンの華麗な女形姿が当時話題を拐う。清朝末期に隆盛を誇った京劇とその時代に若くして花形役者となった二人の人生を通して現代中国史とその激動の時代に振り回された人々の姿を描く。この映画は彼らの生きる時代、現代中国史を追いながら、蝶衣の小樓に対する一方的な愛(同姓愛)に小樓の妻が加わる奇妙な三角関係の中で三者三様に交錯する複雑な愛情と憎悪の物語の流れと、激動の時代に振り回されころころと立場が変わっていく、個人の力では抗しがたい時代の流れの悲劇と大きく分けて二つの主題が同居している。その二つの話の流れが時代背景に深く切なく絡み合って、この映画を最高な表現に導いている。まさに大河長編と表現すべき途方もないスケールの大きい物語だ。とにかく、この映画は凄い。超お勧めの中国映画。もし見てない人がいたら、もったいないから絶対見た方がいい。

覇王別姫』は京劇の題目の一つ。四面楚歌の語源にもなった項羽と劉邦の最後の戦いを題材にとった物語だ。楚王項羽が後に漢を築く劉邦に城攻めにあい寵姫と供に籠城した際、夜中城の周りあちらこちらから楚の歌が聞こえてきた。項羽はその歌を聞き、楚は既に劉邦の手中に落ちたと誤解した。項羽は落城ももはや時間の問題と考え死を決意する。その際、寵姫は愛する覇王の為に剣舞を踊り、剣で喉を刺して自害するという物語である。劉邦の巧みな策略よりも項羽と寵姫の愛の物語にスポットを当てた芝居で、日本で言えば忠臣蔵のような庶民に愛された戯曲である。

映画『さらば、わが愛』の中で繰り返し演じられる京劇『覇王別姫』は見事なまでに豪華絢爛、華麗な世界で日本の感覚とはまた違う、中国的な様式美の世界だった。僕は映画本編だけではなく、映画の中で上演される京劇にも魅了された。

その素晴らしい古典歌劇を毛沢東時代の四人組が起こした文化大革命は完全否定する。王朝ブルジョアの贅沢趣味を継承しているにすぎないと。物語でも蝶衣の愛弟子、小四が京劇は古典劇にこだわるのではなく労働者のための歌劇として生まれ変わるべきだと主張して、京劇の持つ表現に魅了され、その文化を死守するべきと考える蝶衣と喧嘩になり、結局蝶衣の考えが文化大革命で否定される。小四は戦後の現代的な考えを持つ共産党員(文化大革命時代の中心的勢力になっていた層)を象徴する存在としてたびたび物語の重要な鍵を握っていて、例えば伝統的な徒弟制に近い修行方法を人権無視の古いやり方だと批判したりして、伝統的な修行法で育ち、その中で単純なしごきだけじゃない自分たちの根底に流れる文化の意味を知っている蝶衣と対立する。これは蝶衣と小四だけの問題ではなく我々東洋文化圏に属していた国々がまさに抱えている問題だ。急速に西洋文化を採り入れざる得なかった状況では、伝統的な価値観や物の考え方が継承できない構造になっていく。受けた教育の違いによって生まれる、お互いに譲り得る部分がなくなるほど大きくなった世代間のギャップ。それによって精神文化の継承が断たれ、伝統的な価値観は崩壊する。

中国だけでなく日本も同様な葛藤が日常レベルで現在でも起こっている。既に日本はほぼ全面的に西洋文化に属していて僕達現代人の基本的な考え方は西洋的なのだが、やはりまだ日本にも東洋文化に属していた時代の名残は数多く残っていて、それら名残をどう扱っていいのか戸惑っている。問題を先送りしてきたのが日本で、その分だけ俗悪な形になって現在の僕達の目の前にある。日本は経済大国だが国際国家ではないのは未だ重要な部分でシステムが伝統的な精神文化の名残をひきずっているからに思える。外的な圧力を考えても、変革の必要性は明らかで、変革の壁となっている伝統的な精神文化の名残はもはや害でしかない。残して残して残してきたものを捨てる選択が正しいのだろう。だから、これからいっそう日本には千年の歴史が作った精神的な文化を継承する人的基盤はなくなるだろう。スタイルとして、様式美としては緩やかに融合して日本的というものはこれからも存在できるだろうが、精神文化は継承されないだろう。確かに、西洋文化から見れば一見伝統的な東洋の文化は人権無視な要素があるように見えても仕方がないことは、半分西洋人の日本人はよく知っている。それが日常のあちらこちらに問題を引き起こしていることを良く知っている。蝶衣が心の支えにしてきた東洋の精神文化は蝶衣と同じく弾糾される身なのだろうか。蝶衣の主張も一理あるし、小四の主張も納得できる。一口に伝統文化の保護と言っても問題の根は深いだけに難しいだろう。

文化大革命の荒が去った'77。古典歌劇の評価に見直しが入る。やはりどう考えても文化大革命は狂気の沙汰で、今まで長い歴史の中で培ってきた物を暴力的に完全否定するのはひどすぎる。もちろん、それは中国人民も共通の感情で、だからこそ今日伝統的な京劇が復活しているわけだが、映画の中の二人の京劇役者にはあまりにもその事件が残した傷は深かった。当然だ。人間だったらあんな狂気は耐えられない。再び、まともな環境で共演する機会を得た二人の最後の舞は、あまりにも痛ましく切ない。だから、蝶衣は最期に…。きっとこの時を待っていたのだろう。菊仙に対する償いなのだろう。その時二人は何を考えて舞を踊っていたんだろう。そのことを考えるとすごく切なくなる。映画中の二人の役者に幸せな時代に京劇を演じさせてあげたい。

個人的には後半、文化大革命の告発で小樓が菊仙に向かってあんな売女など愛してないと叫ぶシーンとその後の菊仙のアップがとても気に入ってる。そのシーンは観ている僕が緊張してしまったぐらい切迫感のある表現で、まさに文字通り僕は息を飲んだ。後にも先にもこの映画以外に緊張しながらワンシーンを観たことなんて記憶にない。

Report: Akira Maruyama (1996.08.05)


[ Search ]