Cinema Review

幻の光

監督:是枝 裕和
出演:浅野 忠信江角 マキコ内藤 剛志

故郷四国で生涯を全うしたくて失踪騒ぎを繰り返す老人性痴呆症に冒さた祖母。祖母の最期となった放浪を幼い頃の主人公が近所で目撃していたが、引き留めることができなかった。何回も警察の保護の元、家に連れ戻されてきた祖母もこの時を最期に行方不明となる。「何故、あの時引き留められなかったのだろう」。この記憶が彼女のトラウマとなる。やがて彼女は結婚。貧しいながらも幸せな生活を送り、一児を授かる。子供が3カ月になるころ、人曰く男が一番張り切る時期に、夫が電車にひかれる。運転手は、進行方向を最期まで後ろを振り向かず歩いていたという。何故、自分と子供を残して自殺紛いな行為に出たのだろうか。彼女にも周囲にも自殺紛いの行為の動機が見当たらない。彼女のトラウマは悲しみを伴いより深い傷となる。「何故自分が夫の死の兆候に気づけなかったのか」。数年後、彼女は能登半島の曾々木という寂れた漁村の家に嫁ぐことを決意する。北陸の鉛色の空と厳しい自然環境は彼女に新しい生活の不安を抱かせたが、新しい夫の優しさは彼女の傷を次第に癒していく。彼女は村の生活にも融けこめ、新しい生活は順調に思えたのだが、心の中の戸惑いは消えたわけではない。この幸せが今の夫ではなく、もし彼が与えてくれたものだったら…。曾々木の海には幻の光があるという。漁師はその光に吸い込まれたい衝動に駆られるそうだ。新しい夫は漁師だった父のこんな体験を話し、「そのような衝動は誰でもあるんちゃうか」という。それぞれの思惑が悲しく交錯し、物語は暗い北陸の空が彼女の戸惑いを暗示しながら、彼女が事件の記憶をたどり、夫の死の意味を考えていくことで進行する。

幻の光』は観たい観たいと思いつつも、あまり映画に時間が割けられなかった時期の映画だったので結局公開時は見逃してしまった。その後、ビデオ発売('96/7月)までに何回か東京の映画館で上映していたのだが、やっぱりそれも見逃してしまい、結局ビデオで観た。その間、友達から「幻の光よかったで、よかったで」と何回も言われ悔しい思いをしていたので、やっとみれて幸せだ。ということで、いままで散々いじめられたフラストレーションをバネに、このレビューで原作『幻の光』と映画の表現の違いを論じてみたいと思う。

この作品が是枝 裕和監督は初監督作品となる。この映画は国内でも国外でも数々の賞を授賞し、高い評価を受けた。確かに原作を読んでいてこの作品の持つ世界が分かっていれば十分に納得のいく表現ではあるし、映画が好きならば監督の狙いが良く分かるし、十分その効果が得られていることも理解できるのだが、この映画のファンの前に宮本 輝のファンであり、宮本 輝の短篇小説『幻の光』のファンである僕には映画として狙った所がある分だけ原作の持つ重要な意味をそぎ落していると感じられた。

僕は宮本 輝が好きなので、当然原作『幻の光』は何回か読んだことがある。映画化を聞いた時、時代背景も明るい要素がないので暗い映画になるだろうとは容易に予想できた。原作自体がとても暗い話だ。内容も複雑な内面的な情緒が主で、テーマがすごく難しいので、映画表現向きではないと感じた。

結論からいえば、この映画はこれだけ難しい原作の持つ要素をよく情景的な映像で表現していると思う。僕はすごく表現の苦しさを感じたが、これは僕が原作の持つ雰囲気を知っているため、監督がどこに勝負をかけているか分かってしまったせいかも。何も知らないで映画を見たら、けっこう奇麗な表現に感じ、洗練された悲しさを感じられたかもしれない。とにかく情景的に表現しきっているのは評価に値する。才能ある監督だと思う。

基本的な話の筋は概ね原作に沿っている。情景的な表現の裏に隠された情緒の移り変わりを観客が読みとれるどうかは別として、原作を知っている人には意味が分かる映像で綴られる。たぶん、原作を知らないで情景の裏を読みとれる人は繊細な人か想像力たくましい人だけだろう。たぶんかなり難しいのではないかと思う。監督はかなり繊細に忠実に原作を情景的に再現しているのである。概ね原作に沿った映像なのだ。もしかしたら原作を知らない人には情景的な表現に隠された感情を読みとれずにこの映画の間を冗長に感じるかもしれない。

最大の原作との違いは設定である。原作では主人公は昭和30年代の高度成長の波に乗り切れなかった家庭に生まれ、光さえもあたらない大阪の貧困街で育ち、その貧しい環境でともに育った幼馴染みと結婚する。この時代の貧困層の暮らしが落す影が物語の重要な要素を担っている。映画では貧困層である主人公の衣装は、作品を通して常にすごく洗練されている。その為、大阪時代の生活の悲壮感を感じない。大阪時代はこの映画を特徴としている闇の色、黒を基調とした衣装を一貫して纏っていて、曾々木時代に入り生活に輝きを得られると同じく色が段々と鮮明さを帯びてきてワインレッドのワンピース等に変化していくのだが、すごく現代的な洗練された衣装だ。モデルでもある江角 マキコによく似合っていて、戦後という原作の時代背景を匂わせない。衣装がすごく良かった。ここからも分かる通り明らかに監督は原作の設定を使っていない。原作は、前半で主人公の戦後、高度成長時代の貧困層の生活を印象強く書くことで、強烈なまでに大阪という土地のいやらしさ、あたたかさを物語の核にしているのだが(宮本 輝作品の特徴でもある)そこらへんにあまりこだわらずさらりと流しているあたりがちょっと宮本 輝ファンにしたら気になる。もっとも設定に拘ると表現が難しくなるし、もっと暗い話になってしまうので、映画は別な世界と考えればこれはこれで文句はない。

原作の持つもう一つの重要な主題が異郷人が感じる北陸の自然の驚異、畏怖である。この物語の後半の重要な要素だ。原作では主人公ユミコが始めて見る北陸の自然に対して驚異を感じ、その自然の情景を深い悲しみに照らし合わせるのだが、それこそ他の地域で育った人間のフィルタがかかった物の見方で、等の現地人はそんな感情を自然から感じることはない。僕自身が北陸の厳しい自然環境で育ったから分かるが、そんな環境で育つと、鉛色の空も荒れ狂う海も憂鬱をひきおこす要因でも何でもない。それが日常なんだから。だから現地人はたくましく生きているように見える。そのユミコが思う悲しみの日常をたくましく生きている人々(僕にとっては当たり前に思えるが)の日常に触れ、ユミコが生きる意味を見い出すことがこの作品の重要な主題の一つでもある。が、その感情を引き出すための北陸の自然の厳しさが僕の目から見ると非常に中途半端に見えた。物語の生の部分を導く重要な情景だけにもっと本当に畏怖を感じる自然を描き切って欲しかった。少なくとも僕の知っている自然の驚異はこんなものではない。それがあるからこそユミコは北陸の僻地で生きようと決意したのだし、物語を締める重要な情景であるだけに残念だ。もっとその表現に力を注いでも良かったのではとつい思ってしまう。

原作と照らし合わせてみると、もしかしたら監督は原作の持つ大阪と北陸という二つの土地に縛られた思いを極力排除しようとしているのかもしれないと思える。もっと普遍的な、生と死というそもそものテーマのみに注目してこの映画を撮っているのかもしれない。普遍的にすることで、洗練された映像表現を得たかったのかも。だとしたら僕は少々不満に思う。ただでさえ動きのない映画だけにもっと生々しい厚い部分が欲しかった。原作では、土地に縛られる人々の思いがその要素を熱く悲しく彩っていただけに、その部分を極力薄くしてしまったように思えるのは残念だ。

映像はほとんど余計な光源を入れない、ほとんど闇の世界の中進行する。きっと強烈に光が差し込む場面の効果を狙って暗く暗く作ったに違いない。光と影が映像的な監督の最大の狙いだろう。幻の光の存在を闇によって強烈に存在させたかったに違いない。確かに、光を差し込む場面は、その効果によって美しくまぶしく光々しく感じるが、その表現を得るためのデメリットとして大半のシーンをあそこまで暗く作るのはどうか。スクリーンで見てないので何とも言えないが、少なくともビデオで見るにはきつすぎる暗さだ。何が動いているかさっぱりわからん。ビデオでこれだからきっとスクリーンでもやはり闇の中の動きを追うのはつらいに違いない。狙いは分かるが、光を強調するやり方はいくらでもあるので、全体をあそこまで暗くする手法は疑問に思う。

総評として、やはりこの映画は難しい。もともとのテーマが難しいのだからしょうがないと思う。が、とてもよくできた映画で、近年稀に見る美しい映像の映画だ。本当にこの監督には才能があると思う。最近で最も最上な日本映画だと思う。僕はこの映画を観てこんな感じで『錦繍』(原作:宮本 輝)を撮ったらきれいだろうなと思った。

Report: Akira Maruyama (1996.08.04)


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