Cinema Review

恋する惑星

Also Known as:Chungking Express

監督:ウォン・カーウァイ
出演:フェイ・ウォン、金城 武トニー・レオンブリジット・リン

'94。香港。ハンバーガーショップを中心に展開する警察官223号と663号の2つの都会的な恋のオムニバス映画。

最近、アジアン・ヌーボーという表現をよく耳にする。アジアン・ヌーボーの旗手とされるウォン・カーウァイ監督は、現在世界で最も注目されている監督の一人と言って過言ではない。一口にアジアン・ヌーボーっと言っても、新しい時代の表現の到達を感じさせる、既存のアジア映画の枠を越えた新しい世代のアジア出身監督達の映画が、ひとくくりにされてヨーロッパではアジアン・ヌーボーと呼ばれているだけだ。特に思想的な特徴があるわけでもなく、そこから分類されているというわけでもない。だから特別アジアン・ヌーボーと呼ばれている監督達がアジアン・ヌーボーを意識しながらこの流れを起こしたわけではない。たまたま映画界全体を眺めているととても面白い視点を持った監督達がたまたまアジアに集中して生まれた現象だけにすぎない。

が、現在突然センスのある監督達がアジアに多数生まれてきているのは決して偶然の一致ではなく、アジア映画界からすれば必然の「時代の流れ」である。所詮ヌーベル・バーグという分類にしても特に思想的特徴を持って新世代の監督達がフランスに集まったのではなく、たまたま時代の流れを受けてその時期のフランスに新しい感覚の監督が次々と生まれてきた現象を指しているので、その意味でもアジアン・ヌーボーという分類の仕方は、多少欧米の強引で平面的な分類にも見えなくはないが、全体的には時代の流れを的確にとらえている言葉だと思う。個人的にはアジアン・ヌーボーは近代映画界でもヌーベル・バーグのような歴史に残るような大きな流れになる予感を持っている。やはり経済的にも文化的にもアジアは今最も可能性があり、勢いがあり、熱い地域なのである。

とにかく現在ヨーロッパにおいてのアジア映画趣味というのは異常なぐらい盛り上がっていて、とりあえずアジア出身の監督の映画だったらヨーロッパ映画界は無償で賞を与えるのではないかと思えるぐらいアジアの映画の動向は注目されている。もちろんヨーロッパの目から見れば日本映画界の動きもアジアン・ヌーボーの一部を一翼を担っていると解釈されるだろうが、今の所あまり日本映画はアジアン・ヌーボーの動きとは連結していない。

最近だったら石井 聰亙監督『幻の光』等のセンスある日本映画が目白押しだが、アジアン・ヌーボーの流れとはちょっと違うと思う。日本映画界独自の流れを汲んだ「映画」のような気がする。アジアン・ヌーボーの動きはもっとアジアを意識していて、横(隣国)の新しい動きに敏感で連動していて、お互いがお互いを刺激しあっていることが一番重要な特徴だと思えるので、ここではあえて前述2作はアジアン・ヌーボーの映画ではないと解釈する。(良い映画だとは思っているけど。)日本におけるアジアン・ヌーボーの映画とは例えば、奥山和由監督の『好男好女』になるだろうか。この映画のようにアジア映画界全体を特に意識した映画を積極的に考えないと、日本映画はせっかく隣で起こった歴史的な流れに乗り切れない気がする。

一言でいうアジアン・ヌーボーの特徴は、経済熱を帯びたアジアの活気と、経済効果から無制限に大量に流入する欧米の文化の影響を受けた若者の感覚をスクリーン前面に押し出した、熱を帯びた活気なので、湿った空気を特徴とする既存の日本映画の流れを組んだ作品はアジアン・ヌーボー的ではない。やはり日本の映画界も国際感覚を求められている時代になったのである。もう、日本映画界独自の歴史的な流れはすでに国際的には全く評価価値がなくなっていると僕には思える。

が前述した通り、最近日本映画の若手監督達は結構いい感覚の表現ができているので、も少しアジア全体を意識してブレイクが起これば日本映画界がアジアン・ヌーボーの中心になるポテンシャルは当然秘めている。日本映画のアジアン・ヌーボー化を僕は強く望みたい。日本映画の歴史的な流れを強調している批評家なんて糞くらえだ。アジアにならえ。アジアだ。

で、このように世界中で最も注目を浴びているアジアン・ヌーボーの金字塔となる作品、ヌーベル・ヌーベル・バーグにおける『汚れた血』のように象徴となる作品が、この昨年日本で公開された『恋する惑星』である。

ウォン・カーウァイ監督はこの作品によってヨーロッパでハリウッドで、そして日本で批評家達に絶賛され、一躍アジアン・ヌーボーという新時代を感じさせる言葉を世界中に定着させたのである。日本市場でも10週連続上映という香港映画史上稀に見る興行成功を収めた。『恋する惑星』の名前にピンとこなくても、主演女優であるフェイ・ウォンの主題歌は公開当時ラジオでバンバン流れていたので一回ぐらい聞いたことがある人が多いだろう。

都会的な乾いた感覚の映像とクールなセリフ回しが従来の香港映画と決定的に違う所だが、それよりも僕は画面全体に隠しようないぐらい現れている香港の熱気とウォン・カーウァイのセンスにビンビン感じてしまった。こんなに映画を観て興奮したのは『パルプ・フィクション』以来か。新しい時代の到達を感じたという意味では、まさに現代の『汚れた血』を観ている気分だった。たぶん、リアルタイムで『汚れた血』を観ていたらこんなふうに感じていたのだろうなと思った。リアルタイムにアジアン・ヌーボーを感じられるのはすごく幸福なことだ。

主演男優の金城 武(カネシロ・タケシ)はこの映画でブレイクした甘いマスクの役者だが、実は国籍が日本人である。正確には中国人のハーフの日本人である。ので、映画の中でも流暢に北京語、広東語、日本語を使いこなしている。本人のインタビューではつい最近まで日本に住んでいて自分は日本人のつもりだったのに、香港映画界の大スターにのし上がった現在では、本当に自分が日本人だったのか自信がなくなってきていると答えている。まさにアジアン・ヌーボーの時代の寵児になるべくして生まれてきた国際俳優の要素を持った役者なのだ。同じく中国人系日本人で、『好男好女』の主演女優、伊能 静(イノウ・シズカ)もこれから国際女優として育っていくだろう。両者とも日本での知名度は、日本のTVドラマに出演しているようなB級役者よりもはるかに低いが、国際的な評価はもちろん彼らなんて比べものにならないほど絶大である。いかに日本のマーケットが閉ざされているかを、彼らの国際的評価が象徴している。これからはアジアの映画に積極的に出演しなきゃ。日本で地位を得ているトレンディ俳優の皆様も。時代においてかれちゃうよ。

金城 武は、レオス・カラックスにおけるドニ・ラバンといった感じのウォン・カーウァイの表現する世界には欠かせない役者になりつつある。一方、ウォン・カーウァイにおいてのジュリエット・ビノシュとなるべきフェイ・ウォンにはあまり女優としての魅力を感じなかった。当然、彼女は香港では大スター(アイドル)だが、実力的にはあまり人気ほどには感じない。日本には同種のタイプの個性的な女優(つみき みほ、相良 晴子)が揃っているので、特に新規性が感じられずあまり瑞瑞しさを感じなかったのが原因である。その点、女優としての可能性はまだ日本の女の子の方が洗練されている分だけ有利か。特に今回みたいな都会的な感覚を描く場合、日本で育った娘の方が映えるだろう。可愛いだけの日本の女の子的なセンシティブのかけらもない女優も多いけど。今後の日本女優のアジア映画界進出に期待大である。

plotとしては個人的な趣味ではもっと過激なのが好みだが、まぁこのぐらいのソフト感覚の恋愛ものも新鮮ではある。僕にはplotのつめの粗さが目立ったが、そんなものはどうでもいい。この映画の良さの本質はそんなマイナスなんてどうでもいいぐらい素晴らしいのだから。なんかこのように新しい時代の映画を観て批評していると無性にその時代の波に乗って自分も映画を撮りたくなってくる。この映画はそんな創作意欲を喚起させるだけのインパクトと新鮮さと時代を感じさせる勢いを持っている。きっとウォン・カーウァイがアジアン・ヌーボーを引っ張っていくだろう。日本も影響を受けて劇的に表現が変わっていくだろう。アジアン・ヌーボーの勢いにのって、日本で映画表現が再び身近な媒体になるほど脚光を浴びる時代はもうすぐかもしれない。今、絶対アジアが面白いんだから。アジアの中の日本なんだから。

「その時、僕と彼女の距離は0.1cm。2時間後、彼女は別の男に恋をした。」

Report: Akira Maruyama (1996.06.18)


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