Cinema Essay

役者「竹中 直人」についての考察


僕が見た彼の出演作品

'83 TV 『テレビ演芸』にてタレントデビュー。以後TVを中心に活動。
'87 『私をスキーに連れてって』
'91 『シコふんじゃった
'91 『無能の人
'94 『RAMPO
'94 『119
'95 『GONIN
'96 『Shall we ダンス?
現在 NHK 『秀吉』主役

日曜8時代のNHK大河ドラマはかつての日本人の定番番組だったが、近年の視聴率は長く続いた黄金期の数字を考えると著しい低下といってもよかった。権威的な時代考証の産物による解釈など一般受けしなくなっていたのである。もはや、時代は劇的な演出とテンポの良い過激な展開のみを要求している。時代劇というスタイルで勝負をしているNHK大河ドラマには逆風といってもよい時代だ。ところが、今年のNHK大河ドラマは竹中 直人を主演の『秀吉』によって例年ない視聴率の獲得を成功した。原作はビジネス本を中心に活躍している作家・堺屋太一である。当然、視聴率巻き返しのため時代の要求を踏まえた、人間『秀吉』のより劇的な演出を狙ったアプローチであるのは原作の選択からも伺える。もちろん、竹中 直人の主演の選択も思い切ったアプローチの一貫だろう。が、彼のキャリアから考えても主役を張るのは当たり前といえば当たり前なので、やはり思い切ったとはいえ、結局保守的なNHKの製作の調整のとれたそれなりのアプローチだったにすぎないだろう。

僕は高視聴率の理由はNHKのNHKとしては積極的なそれらアプローチが功を奉したというよりも、むしろ主演男優『竹中 直人』の演技の魅力にあるように思える。脚本があそこまでの過剰な演技を要求していたとは、周りの競演者の演技を見ている限り思えない。高視聴率は彼による所が大きいはずだ。なぜなら、NHKには申し訳ないが、NHKの思い切ったアプローチの裏にかくれた視聴率獲得のための算段をもっても、一般人の僕から見ると結局今までの大河ドラマと大差ない平凡な企画のように見えてしまうからだ。もし、彼が現在の『秀吉』のような演技ではなく、かつての月並な大河ドラマの主役のように真面目に演技していたら、このアプローチでは月並の成功しかしなかっただろう。よって、今回の成功の理由は、今までの大河ドラマの枠を越えた彼の演技が全てであると考える。番組の成功の全てを個人の演技が背負っていると考えているのである。

竹中 直人は企画当初のNHKの思惑をはるかに越えて、予定外に過激で劇的な演技をし始めた。ほとんど彼一人の独断場といっていいぐらい「濃い」演技である。行動一つ一つが恥ずかしいぐらいに熱い。周りから浮いているといっても過言ではない。評価されているからいいようなものの、普通はこんな演技は独走にしか見えない。こんな現代的な表現をする時代劇の役者はかつていなかった。そこが、過激に見えるそもそもの理由である。

竹中 直人はプロフェッショナルな役者である。もちろん、全ての演技効果は彼の計算のうちによるものには違いない。が、僕は彼の出演する映画を見続けていて特にここ1、2年の彼の演技が過去に比べて明らかに変化してきていることに快く思っていなかった。計算のカンどころがどこか鈍っているんじゃないかと思っていた。その結果が今回の『秀吉』の成功である。彼はこれで世間一般としては誰でも知っている著名な役者になったので、僕としては少々複雑な心境である。

たまたま一般視聴者が馴染みのNHK大河ドラマに新しい活力ある演技を望んだ所に、彼の現在の演技スタイルがうまくはまった。今の彼の演技スタイルが世間が求める大河ドラマの主人公だった。が、偶然、役柄としてそのスタイルがはまっただけで、そのスタイルが彼の演技の完成ではないと思う。秀吉の成功によって世間一般では現在の彼の演技の評価は高いが、古くからの彼の演技ファンの僕としては彼の現在の演技は正しいのかどうか疑問視している。彼にとって現在の評価は幸せを導くのだろうか。今の彼の演技は、僕に彼の今後の演技の危機を予感させることがある。

現在の役者としての彼はあまりにも主張しすぎていると思う。主張しすぎて映像として正しいのは、「保守的すぎて視聴者離れをおこした大河ドラマの新企画主人公」といったような特殊なシュチュエーションだけだ。だから、僕は最近の彼が出演している映画が彼の演技によって崩されていると感じることがある。当然、そんな特殊な立場で毎回演じられるわけではないので、存在感だけ強くて妙に浮くのである。

最近の彼は実力が評価されるにつれて、自分の表現したいことを表現できる環境を得た。それによって、自分の表現したいことを表現する快楽に麻痺し始めているのかもしれない。周りの役者に比べて自己を主張する表現力がありすぎる為に、結果、映画全体を考えると彼が画面映えがしすぎて調和がとれないのである。意図する所意図しない所様々だが、特に意図した時の過剰な自己顕示表現ははっきりいって酷い。かつてはこんないやらしさはなかったはずだ。当初は面白がってすごいと感じていたが、最近もうこのスタイルにあきあきしている。

もちろん、監督も現在の彼の存在感を理解して、異色役者『竹中 直人』の存在感をうまく映画に反映させようと起用する例もある。今年公開された周坊正行監督の『Shall we ダンス?』はその効果を狙って起用した例だろう。が、『Shall we ダンス?』は本来映画にスパイスを効かせる為に彼の存在感を利用しているはずが、あまりにも彼の存在感がずばぬけてありすぎるために完全に主役を食ってしまっている。そのため、映画としては面白いが、何か後味悪い感じがする。やはり脇役や準主役だったら主役を活かす為の演技をして欲しいと思う。その意味で、『Shall we ダンス?』は確かに彼がいなかったら面白くなかったが、彼がつっ走りすぎたため周坊監督の『竹中直人』起用のネライが外れてしまい、バランスが崩れた気がする。妙に彼の濃い演技だけが印象に残った。もちろん、存在としては面白かったが、あまりにも自己主張が目について映画全体としては彼の存在がよかったかどうかは評価しにくい。

彼の現在の演技スタイルに適当な役柄設定でもこの状態なので、もっとシリアスな演技ではもっと醜悪になる。昨年公開の『GONIN』は、主人公5人のうちの一人で主役の準主役という立場だったが、一番最初に殺される主人公に関わらず妙に意味なく主張してストーリーにまで違和感を残している。もっと地味な役まわりに徹していた方が映画としては面白かったと思う。

主役を簡単に張れなかった頃の彼の脇役の演技が僕は好きだ。脇役なのに妙に存在感があるのがすごいと思った。彼はすごく純粋でシャイな人なのでつっ走りすぎるともっととことん今の方向でつっ走りそうな気がする。しかも、まわりがちやほやしているので、誰もつっ走ることを止めない気がする。そうなった時の彼の演技がどうなるのか考えると恐い。

彼はやはりすごい役者なのである。でも、今のスタイルを貫くなら、彼の演技力に見合う役柄は保守的雰囲気を打破する必要があるNHK大河ドラマの主人公ぐらいなものではないか?

Report: Akira Maruyama (1996.05.14)


[ Search ]