多摩川の河原で石を売ることしかできない社会から落ちこぼれた男とその家族のエピソードをブラックユーモアで綴る。とてもじゃないがplotなんて書けないわ。つげ義春の漫画『石を売る』シリーズが原作。(『石を売る』『無能の人』『鳥男』etc)。竹中 直人初監督作品。漫画のつげワールドとしか言いようのない独特の雰囲気を、つげワールドに魅せられた竹中 直人が原作に忠実に再現。ベネチア映画祭国際批評家連盟賞受賞。
映画『無能の人』は良い映画である。ついでに、竹中 直人は良い役者である。
少なくともそれは確かだ。最近では『秀吉』でぶっとんだ演技を茶の間に提供してうけているいるらしいが、役者としてだけではなく映画監督としてもこの作品で非凡なる才能を証明した。そんなことは映画『無能の人』では当たり前すぎる事実でいまさら素人がトヤカク言うことではないので、それらは前提とした上で原作である漫画と映画の表現の違いについて批評してみたい。
僕より若い人はつげ義春を読んだことがあるだろうか?もしかしたら、興味があるか、たまたま知ってしまったか、兄貴が読んでいたから読んだこととがあるとか、ともかくそんな機会がなければつげ義春の漫画なんて触れるチャンスがないかもしれない世代かなぁとふと思ったりもする。もちろん、僕の世代もマットウに生きていれば『つげ義春』と聞いて「あぁ漫画家かな!?」と思う人もたくさんいるだろうけど、実際に読んだことのある人はそれなりに少ないんじゃないかなというような世代である。僕もたまたま興味があったから能動的に読んだにすぎない。決してブームだった世代ではない。
『つげ義春』と聞いて胸を踊らせる世代って言うのは「全闘」華やかし頃の大学が燃えていた時代の学生だからボクラにとっては遠い過去の話だ。ガロ、ガロ。が、名作と呼ばれる彼の作品は未だに時々キーワードとして現代に突如出現する。『ねじ式』『ゲンセンカン主人』そして『無能の人』。まるで現代の常識のように。竹中 直人は『ガロ』の世代の学生で、だからこそ初監督作品でつげワールドの表現を選んだ。なんか、つげワールドを知っている僕は当たり前のように思う。僕のその当時の学生だったらいつかはこの世界を別なメディアで表現してみたかったに違いない。ガロ、ガロ。
よく映画化に必ずつきまとうのは原作との関わりあいである。映画は脚本の原作となる作品を叩き台にするケースが多いので、常に原作の持つ雰囲気を壊して全く新しいものにするか、慎重に再現を試みるかの選択を迫られている。結局どっちの道をとっても表現がしっかりできていれば問題がないのだが、前者を選択して酷いできだった場合(例: ネバーエンディング・ストーリ)、原作者が怒り狂わないとも限らないので大抵玉虫色の折衷案で映画が作られて、原作を知っているものにとっては「あぁ原作の方が面白かったのに」という駄作に無事着地する。映画を作るって行為はとっても難しい。
映画『無能の人』は忠実に漫画の世界を再現する立場をとった。基本的な話の筋も漫画のストーリーを借りている。もちろん、実写ある分だけ同じシーンを表現していても独特の間を漫画にはない表現で表現している。つげワールドは当然思い入れの激しい人が沢山住んでいそうなので、もし原作を改変して同名の違う筋の映画を作っていたら酷評を受けたかもしれないと思う。この映画は世界を正確に描くことで成功した。
が、この映画の最大のすごい点は監督竹中 直人自身ががつげワールドの思い入れの激しいオタクだったから、漫画のまんまの実写に「なってしまった」所にある。自然となってしまった気が強い。つげワールドおたくなんだからそれ以外に表現のしようがない。だから表現に説得力がある。だって画面の隅々に「だってこれが好きなんだもん」って主張されているから。だから、この映画は良い映画である。竹中 直人は映画のことを良くわかっていてつげワールドのことを良くわかっていた。本当のオタクの作ったオタクの大切にしている世界の表現は慎重で綿密な分だけかくに正しいのである。
僕ははっきりいって特に名作中の名作と言われる『ねじ式』が良く分からない。何故あれだけの多くの人が熱中した漫画なのか何回読んでも理解できない。暗いし、奇妙だし、話が発散するし。雰囲気で読むものだとしてもあれを見て「うーん。名作だ。」とうなれるのはクリープの違いが分かる男だけだと思う。そんなもの分かるか!!
しかし、『石を売る』シリーズはすごくいい。はっきりいって有名小説なんかよりよほどテーマがあるし主張があるし問題意識がある。現代の名作だと僕が自身を持って言える。その原作を知っている僕ははっきりと思う。どんなに映画『無能の人』を映画を分かっている人が「完璧」につげワールドを表現し切っていると主張しても、やっぱり原作のもつ表現には勝てないって。だって見るからに明らかに原作の方がすごいんだもの。原作の前では映画版『無能の人』はソフトフォーカスされた写真のように主張がピンボケしているように感じる。どれだけ「原作の持つ雰囲気を忠実に再現した」と評価されている作品だとしても。
やはり竹中 直人がいくら映画表現の知識があってつげワールドの住人であろうとも原作の持つすごみには勝てなかったのである。やはり『つげ義春』は天才か。逆説的に表現すれば、「あの」竹中 直人が表現し切れなかった原作『無能の人』は本当にすごい作品なのである。