Cinema Review

耳をすませば

監督:近藤 喜文
声:本名 陽子高橋 一生

'95。日本。宮崎駿プロデュース。スタジオ・ジブリ製作。原作は少女漫画。中学三年生の女の子を主人公に彼女のさりげない日常と淡い恋と将来への不安と希望と様々な悩みを10年前を想定した古き良き時代の東京近郊の風景と共に描くアニメーション映画。

原作は短篇少女漫画である。そもそも宮崎 駿が少女漫画は心理描写が多いのでダイナミックな展開を必要とする映画でその世界を表現できるかどうかという試みでこの企画が始まったというから多分に実験的要素が強い。が、最終的にそもそもの実験のゴールであるその少女漫画においての心理描写をこの映画が達成しえたかどうかは別として、原作を知らないし少女漫画は滅多に読まない僕は、良くも悪くも宮崎 駿の表現だからこそ達し得た「ある表現」によってこの映画は始めて輝きを得られたであろうと考えている。もちろんその仮定には多分に少女漫画の表現への偏見も含まれるだろうし、原作を知らない以上暴言には違いないのだが、少なくとも僕はこの映画のこの映画が持っている表現が原作に関わらず映像として最上級なのは知っている。ので、原作がそれ以上だろうとそれ以下だろうとどうでもいい。僕はただこの映画が気に入っているだけだ。

東京の風景の描写は特に近年なく感動した。僕はフランス映画を良く見るのだが、いつも思うのはフランス映画が描くフランスの風景はとてもフランスらしい町並みに見えることである。僕はフランスにいったことがないので大いに偏見と誤解が交じっているだろうが、日本の派手な看板だらけの貧乏たらしい町並みに比べると文化の香りを感じていたのである。が、僕は日本全国くまなく旅をして歩いた人だからこそ思ったのだけど、日本の風景は実は嫌いではない。
当然僕の育った環境なのだから。

ちょうどこの映画を見た頃は僕たち日本人は日本の町並みの奇麗さを実は見逃していただけなのではないかと考えて始めていた矢先だった。フランス人は自分たちの町並みの奇麗さを知っているからこそ自分たちの町並みを奇麗に撮ることができるのであって、日本人だって自分たちの町並みの奇麗さが何かがわかりさえすれば町並みの奇麗さを全面に主張して日本の風景を撮ることが可能ではないかと。少なくとも僕の知っている邦画で現実の「町並み」をさりげなく表現している映画が存在しなかったので、日本を映画を通して見ている外国の人に本当の僕たちの育った日本の風景を見せられるような映画があったらいいのにと思っている頃だった。

この映画は10年前の東京近郊を想定している。5年前に僕が始めて東京に来た頃はもう東京から多摩の全ての土地が住宅地だった。(バブルまっさかりだったから仕方がない。ちょうど東京の街が爆発的に広域に広がる転機の時代だった)が、近所の人の話しを聞くとつい最近まで多摩は緑が残っている長閑な土地だったと聞いてその当時の僕には想像がつかなかったものだ。映画には岡の上から見た京王線と思わしき電車を眺め、遠く新宿副都心を望む風景がよくでてくるので、多分、八王子近辺からもうすこし府中よりの風景に思える。ようするに東京の西、多摩と呼ばれる地域には違いない。僕の昔住んでいた地域だ。もちろん僕の住んでいた頃は映画のような長閑な町並みよりはもっと雑踏としていた。

映画の中の東京近郊は確実にベットタウンでありながらもまだ田んぼを青々と残している。僕の育った僕の田舎の風景とどことなく似ていた。普通の団地にすんでいるごく普通の少女がごく普通に友達とコンビニで待ち合わせるというボクラの当たり前な生活が描かれている。そこで描かれていたのは何の誇張もないボクラの当たり前に生きてきた「日本の風景」だったんだ。

やはり外国のオリエンタル趣味丸出しの富士山・芸者の世界でなくて、日本のボクラのさりげない普段の生活があたりまえのように自然に描かれているというのは、あたりまえのようだけどすごく嬉しいことじゃないだろうか。ボクラは普段見ている風景にもっと自信を持ってもいい。そう、思った。僕の生きてきた日本が自然に描かれているからこそ、この映画が好きだ。

Report: Akira Maruyama (1996.05.05)


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