「嘘つき男爵」と呼ばれる老人が話す回想録。しかしその話は奇想天外。
テリー・ギリアムという監督は全くもって素晴らしいと思う。『未来世紀ブラジル』でもその才能を如何無く発揮しているが、この作品も凄い。一言で言って「イッている」感じだ。
原作はおとぎ話の『嘘つき男爵』で、僕は知らなかったが結構古典的なものらしい。知合いに聞いてみるとその筋を比較的忠実に守って展開しているらしい。しかしだからと言って月の女神に会いに行くところまで絵で再現しなくてもいいと思うが、、
この作品はSFではなくおとぎ話なのだが、おとぎ話と言うのは一歩間違うと素晴らしい未来映画になるという事がよく判る。SFにしろ単なる未来映画にしろ、現在の世界とは一味違う別世界を描くことを目標にしている。詰まらない未来映画に良くあるパターンは、未来を描こうとして現世界のほんの僅かの延長線上の絵を作ってしまう場合だ。大抵の場合現実はそんな非力な想像を上回って進むし、実際数年経ってそういう映画を見てしまうと現実の方が進んでいたりする。大抵の未来映画の映像の何と陳腐化の早いことか。
そうならない長生きする未来映画を作るためには、延長線上の未来ではない、別世界を自分でデザインして描いてしまうことだ。つまり未来を予想するのではなく創造するのだ。すると何年経っても色あせない未来像がそこに完成する。(少し違うがアラン・ケイは「未来を予測する最も良い方法は、それを創造してしまうことだ」と言っている。)おとぎ話はこの創造する別世界としての未来と紙一重だ。
実際それが出来ている映画は幾つもある。キューブリックの『2001年宇宙の旅』、『時計仕掛けのオレンジ』、ガイナックス制作の『王立宇宙軍オネアミスの翼』、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』などだ。これらは別世界をデザインすることに成功したお蔭で、今見ても未来映画として通用すると思う。最初に挙げたキューブリックの映画はそれぞれ1968,1971年の作品だ。
そしてこのテリー・ギリアム監督も別世界をデザインする才能のある人だ。しかもその「飛び」具合と言ったら上に挙げた人達を大きく超えているように僕は思う。
この『バロン』はおとぎ話をベースにしている分だけ遠慮無くトンでいるようで、最初はまだ笑って見ていられるが、途中から段々訳が分からなくなってきて、しまいには振り切られそうになる。月の女神とダンスして空をくるくる飛ぶ辺りでもう僕もくらくらしてしまった。ところが『未来世紀ブラジル』でもこの辺りの感覚は同じで、やっぱり途中でもう僕は振り切られそう!
結局テリー・ギリアムは観客を振り切って楽しんでいるのではないか?それとも「俺のイマジネーションにどこまでついてこられるかな?」とニヤニヤ笑っているのか?大抵脚本を書いて絵コンテを推敲している段階で、こういうエキセントリックなシーンは少しずつ削られて普通になって行く、言いようによっては詰まらなくなって行くものだと思うのだが、ギリアムの作品に限ってそれは見られない。それとも随分丸くしてこれに落ち着いたのか?だとしたら本当に凄い!
これでもか、これでもかと迫ってくるイマジネーションの波に、あなたは付いて行けるか?